遠い8月の思い出
日吉通信(H21年8月25日)
先月来の不順な天候に続いて今月は数度にわたる大きな地震まで加わり、何か大きな天変地異の前触れではないかと心配される昨今ですね。経済も然りですが、最近は100年に一度だとか、何十年ぶりだとかの枕詞がつく事象が連続しこれまでの常識が麻痺してしまいそうです。月末に行われる総選挙の結果については、良い意味で日本大変革のきっかけを作ってくれる事を期待したいと思います。
8月は終戦記念日のためか各テレビ局で“昭和”を取り上げた番組がしきりに放映されておりますが、これを見ていると自分の人生と重ね合わせ当時の様子が懐かしく思い出されます。以前このブログに少年時代の夏の思い出(H19年8月25日版)を綴った事がありますが、今回は大学時代や会社時代の暑かった8月の記憶を振り返ってみたいと思います。

写真:我が家の8月の花
<8月の思い出(学生時代)>
私の大学時代は東京オリンピック(昭和39年)の頃で高度経済成長が始まり国内が熱気に溢れていた時代でした。当時の日本は戦後の貧困から抜け出しつつある時で、一般家庭にはまだクーラーなどの贅沢品は普及しておらず、どの家も扇風機が室内の蒸し暑い空気を掻き混ぜていた時代でした。当時冷房設備が置いてあるのはデパートや映画館それに喫茶店くらいで、冷房のヒンヤリとした風に体を晒すときの爽快感は全身に生気が蘇ってくる様でした。
当時大学では夏休みの終わった9月に前期試験が行われていました。これは学生を夏休みに遊ばせない意図だったと思いますが、お盆の頃になるとのんびり屋の私でも少しづつ試験のことが気になり始めました。家でノートを広げても暑さのためとても集中できないので、連日大学のあるお茶の水の学生街まで出かけたものです。
ピンク色の中央線の電車でお茶の水駅まで西荻窪の我家から40分程かかったと思います。駅から炎天下のアスファルト道路を学生街まで歩くと全身に汗が噴出し下着やシャツが体にまとわりつく様でした。
当時お茶ノ水には大きなクラッシックの名曲喫茶が何軒かあり学生達のオアシスになっていました。私は大学のすぐ傍にある“丘”と云う喫茶店が好きでいつも入り浸っていました。喫茶店の中は寒いくらい冷房が効いており、薄暗い店内でクラッシック音楽を聴きながら一人でハイライトを燻らせ専門書やノートのページをめくる時、自由を謳歌できる大学生の幸せを感じたものです。アイスコーヒーのグラスに残った氷をストローで啜りながら暇にまかせいつまでもねばっていました。喫茶店の涼しい落ち着いた環境の中で勉強していると能率も上がり、気がつくと5時間近くも長居をした事もザラでした。しかし当時の学生に対する店の対応はまことに大らかで厭な顔をされた事は一度も無かったと思います。
最近のお茶の水界隈からはかっての名曲喫茶は完全に姿を消してしまい、昔の情緒ある学生街の雰囲気が失われてしまったのは本当に寂しい気がしています。
<8月の思い出(スペイン時代)>
スペイン最南端ジブラルタルの近くにあるアセリノックス社の熱延技術援助のため呉製鉄所から十数人の仲間と一緒に派遣されたのは、丁度JAL機が御巣鷹山で遭難した直後の昭和60年8月後半の事でした。
飛行機から見る真夏のスペインは強烈な太陽の照り返しで山々が赤茶けており、これから始まる厳しい日々を暗示している様に映りました。
現地で我々に提供された宿舎は地中海に面するビーチにあるマンションで、浜辺では大勢のセニョリータたちが海水浴や甲羅干しをしているという仕事とは全く場違いな場所にありました。スペインのコスタデルソル(太陽海岸)は世界中のセレブがバカンスを過ごすリゾート地として有名ですが、我々が滞在した地域はそこより少し南に外れており現地の一般庶民や海外の年金生活者が集う庶民的な雰囲気のところでした。
スペインの夏はサマータイムが採用されており、夜は11時過ぎまで明るく夕食も9時頃からとるのが普通でした。
アフリカ大陸とは目と鼻の先で日中の気温は40度を超えましたが、家々の白壁が強烈な日光を反射して日本の8月よりは過ごし易い様に感じました。
現地到着の翌日に先方の工場に出頭したのですが、全員正装して出向く様にとリーダーから指示があり、ネクタイにスーツ姿でバス待ちのため宿舎の前に集合していると、水着姿の現地の人々がもの珍しそうにまた怪訝そうにジロジロと我々を見るのには参りました。多分彼らの目には我々の姿は恐ろしく異様に映ったものと思います。
サマータイムのお陰で毎朝出勤する時間にはまだ夜が明けておらず、夏の間はいつも暗闇の中を工場へ出かけたものです。現場は主要な熱延設備の据付が終わり、試運転が始まるタイミングでしたが、初日から仕事熱心なスペイン側の担当者に付きまとわれて忙しい思いをしました。
工場内では呉製鉄所と同じ長袖の作業衣にヘルメット、作業靴の上には脚半という完全装備で活動しましたが、現場の暑さはのぼせ上がる程で正直苦痛に感ずる事もありました。今でも鮮明に覚えているのは、粗圧延機のデスケーリング装置の試運転の際ですが、大音響で高圧水を噴射した時に近くで昼寝していた数匹の野良猫が驚いて飛び上がり一目散に逃げていったユーモラスな姿です。いかにもスペインらしいのどかな真夏の光景として今も瞼に焼き付いています。

写真:スペイン アセリノックス社アルヘシラス工場事務所玄関にて(1985年8月)
<8月の思い出(工場勤務時代)>
私は昭和50年代後半にかけて呉製鉄所熱延工場の係長を数年間にわたり勤めました。
毎年お盆近くになるといつも下期予算の検討と云う憂鬱で面倒な仕事に取り組まなくてはならずあまり楽しい思い出はありません。そんなわけでお盆休みのシーズンはいつも現場事務所に出向いて仕事をしておりました。当時私が住んでいた社宅は工場近くの高台にある一戸建てでしたが、トタン屋根のため夏場の暑さは尋常でなく、クーラーを回しても部屋の上半分は熱気がこもり、涼しいのは下半分だけと云う有様で、会社に出た方が余程快適だという理由もありました。下期予算は最終的には9月末に本社でオーソライズされるのですが、本社や製鉄所管理部門の準備の都合で提出時期が順次繰り上がり、末端の製造部門の提出期限はいつもお盆休みの後になっていました(現在も多分変わっていない)。他部門の連中は夏休みを取ったりお盆帰省を楽しんでいる最中に、連日肩の凝る面倒な作業をさせられるのは全く不本意でヨソの連中を正直疎ましく思ったりもしました。
検討作業に当たっては現場の原始データや伝票一枚一枚に遡って集計し検討を加えて行かねばならず膨大な時間を要します。そんなわけで8月後半は会社に寝泊りする事も珍しくなく頭の中は色々な数字でオーバーフローしそうな毎日が続きました。無論製造現場を維持する方が優先するので、工場内で事故や品質問題等が発生すると予算の検討作業を一時中断して暑い工場の中を走り回りました。
真夏の熱延工場建屋内は鋼材の輻射熱で50度以上になっており、猛烈な湿度と騒音とあいまって一般の人にはとても耐えられない厳しい環境だと思います。ただ天職?として長年この様な環境の中で仕事をしていた私にとっては、熱延工場の熱気や騒音が何か心地良いものに感じられました。今でもよくあの活気に満ちた環境を懐かしく思い出します。
お盆が過ぎるとさすがに朝夕は秋の訪れが近い事を感じる様になりました。不快な蒸し暑さもあと一ヶ月の辛抱だと思います。日吉通信も最近は物見遊山的な内容が続き少々マンネリを感じていましたが、今月は特別なトピックも無いこともあり過去の暑かった8月の思い出を断片的に回想してみました。
皆さんの過去の夏の思い出と共感できるところがあれば幸いです。
おわり





















