遠い8月の思い出

日吉通信(H21年8月25日)
先月来の不順な天候に続いて今月は数度にわたる大きな地震まで加わり、何か大きな天変地異の前触れではないかと心配される昨今ですね。経済も然りですが、最近は100年に一度だとか、何十年ぶりだとかの枕詞がつく事象が連続しこれまでの常識が麻痺してしまいそうです。月末に行われる総選挙の結果については、良い意味で日本大変革のきっかけを作ってくれる事を期待したいと思います。
8月は終戦記念日のためか各テレビ局で“昭和”を取り上げた番組がしきりに放映されておりますが、これを見ていると自分の人生と重ね合わせ当時の様子が懐かしく思い出されます。以前このブログに少年時代の夏の思い出(H19年8月25日版)を綴った事がありますが、今回は大学時代や会社時代の暑かった8月の記憶を振り返ってみたいと思います。
Garden_in_august
写真:我が家の8月の花

<8月の思い出(学生時代)>
私の大学時代は東京オリンピック(昭和39年)の頃で高度経済成長が始まり国内が熱気に溢れていた時代でした。当時の日本は戦後の貧困から抜け出しつつある時で、一般家庭にはまだクーラーなどの贅沢品は普及しておらず、どの家も扇風機が室内の蒸し暑い空気を掻き混ぜていた時代でした。当時冷房設備が置いてあるのはデパートや映画館それに喫茶店くらいで、冷房のヒンヤリとした風に体を晒すときの爽快感は全身に生気が蘇ってくる様でした。
当時大学では夏休みの終わった9月に前期試験が行われていました。これは学生を夏休みに遊ばせない意図だったと思いますが、お盆の頃になるとのんびり屋の私でも少しづつ試験のことが気になり始めました。家でノートを広げても暑さのためとても集中できないので、連日大学のあるお茶の水の学生街まで出かけたものです。
ピンク色の中央線の電車でお茶の水駅まで西荻窪の我家から40分程かかったと思います。駅から炎天下のアスファルト道路を学生街まで歩くと全身に汗が噴出し下着やシャツが体にまとわりつく様でした。
当時お茶ノ水には大きなクラッシックの名曲喫茶が何軒かあり学生達のオアシスになっていました。私は大学のすぐ傍にある“丘”と云う喫茶店が好きでいつも入り浸っていました。喫茶店の中は寒いくらい冷房が効いており、薄暗い店内でクラッシック音楽を聴きながら一人でハイライトを燻らせ専門書やノートのページをめくる時、自由を謳歌できる大学生の幸せを感じたものです。アイスコーヒーのグラスに残った氷をストローで啜りながら暇にまかせいつまでもねばっていました。喫茶店の涼しい落ち着いた環境の中で勉強していると能率も上がり、気がつくと5時間近くも長居をした事もザラでした。しかし当時の学生に対する店の対応はまことに大らかで厭な顔をされた事は一度も無かったと思います。
最近のお茶の水界隈からはかっての名曲喫茶は完全に姿を消してしまい、昔の情緒ある学生街の雰囲気が失われてしまったのは本当に寂しい気がしています。

<8月の思い出(スペイン時代)>
スペイン最南端ジブラルタルの近くにあるアセリノックス社の熱延技術援助のため呉製鉄所から十数人の仲間と一緒に派遣されたのは、丁度JAL機が御巣鷹山で遭難した直後の昭和60年8月後半の事でした。
飛行機から見る真夏のスペインは強烈な太陽の照り返しで山々が赤茶けており、これから始まる厳しい日々を暗示している様に映りました。
現地で我々に提供された宿舎は地中海に面するビーチにあるマンションで、浜辺では大勢のセニョリータたちが海水浴や甲羅干しをしているという仕事とは全く場違いな場所にありました。スペインのコスタデルソル(太陽海岸)は世界中のセレブがバカンスを過ごすリゾート地として有名ですが、我々が滞在した地域はそこより少し南に外れており現地の一般庶民や海外の年金生活者が集う庶民的な雰囲気のところでした。
スペインの夏はサマータイムが採用されており、夜は11時過ぎまで明るく夕食も9時頃からとるのが普通でした。
アフリカ大陸とは目と鼻の先で日中の気温は40度を超えましたが、家々の白壁が強烈な日光を反射して日本の8月よりは過ごし易い様に感じました。
現地到着の翌日に先方の工場に出頭したのですが、全員正装して出向く様にとリーダーから指示があり、ネクタイにスーツ姿でバス待ちのため宿舎の前に集合していると、水着姿の現地の人々がもの珍しそうにまた怪訝そうにジロジロと我々を見るのには参りました。多分彼らの目には我々の姿は恐ろしく異様に映ったものと思います。
サマータイムのお陰で毎朝出勤する時間にはまだ夜が明けておらず、夏の間はいつも暗闇の中を工場へ出かけたものです。現場は主要な熱延設備の据付が終わり、試運転が始まるタイミングでしたが、初日から仕事熱心なスペイン側の担当者に付きまとわれて忙しい思いをしました。
工場内では呉製鉄所と同じ長袖の作業衣にヘルメット、作業靴の上には脚半という完全装備で活動しましたが、現場の暑さはのぼせ上がる程で正直苦痛に感ずる事もありました。今でも鮮明に覚えているのは、粗圧延機のデスケーリング装置の試運転の際ですが、大音響で高圧水を噴射した時に近くで昼寝していた数匹の野良猫が驚いて飛び上がり一目散に逃げていったユーモラスな姿です。いかにもスペインらしいのどかな真夏の光景として今も瞼に焼き付いています。
Acerinox_project
写真:スペイン アセリノックス社アルヘシラス工場事務所玄関にて(1985年8月)

<8月の思い出(工場勤務時代)>
私は昭和50年代後半にかけて呉製鉄所熱延工場の係長を数年間にわたり勤めました。
毎年お盆近くになるといつも下期予算の検討と云う憂鬱で面倒な仕事に取り組まなくてはならずあまり楽しい思い出はありません。そんなわけでお盆休みのシーズンはいつも現場事務所に出向いて仕事をしておりました。当時私が住んでいた社宅は工場近くの高台にある一戸建てでしたが、トタン屋根のため夏場の暑さは尋常でなく、クーラーを回しても部屋の上半分は熱気がこもり、涼しいのは下半分だけと云う有様で、会社に出た方が余程快適だという理由もありました。下期予算は最終的には9月末に本社でオーソライズされるのですが、本社や製鉄所管理部門の準備の都合で提出時期が順次繰り上がり、末端の製造部門の提出期限はいつもお盆休みの後になっていました(現在も多分変わっていない)。他部門の連中は夏休みを取ったりお盆帰省を楽しんでいる最中に、連日肩の凝る面倒な作業をさせられるのは全く不本意でヨソの連中を正直疎ましく思ったりもしました。
検討作業に当たっては現場の原始データや伝票一枚一枚に遡って集計し検討を加えて行かねばならず膨大な時間を要します。そんなわけで8月後半は会社に寝泊りする事も珍しくなく頭の中は色々な数字でオーバーフローしそうな毎日が続きました。無論製造現場を維持する方が優先するので、工場内で事故や品質問題等が発生すると予算の検討作業を一時中断して暑い工場の中を走り回りました。
真夏の熱延工場建屋内は鋼材の輻射熱で50度以上になっており、猛烈な湿度と騒音とあいまって一般の人にはとても耐えられない厳しい環境だと思います。ただ天職?として長年この様な環境の中で仕事をしていた私にとっては、熱延工場の熱気や騒音が何か心地良いものに感じられました。今でもよくあの活気に満ちた環境を懐かしく思い出します。

お盆が過ぎるとさすがに朝夕は秋の訪れが近い事を感じる様になりました。不快な蒸し暑さもあと一ヶ月の辛抱だと思います。日吉通信も最近は物見遊山的な内容が続き少々マンネリを感じていましたが、今月は特別なトピックも無いこともあり過去の暑かった8月の思い出を断片的に回想してみました。
皆さんの過去の夏の思い出と共感できるところがあれば幸いです。
おわり

| | コメント (0)

弥陀の舞う島

日吉通信(平成21年2月27日)
暖冬の影響か今年もあまり厳しい寒さを感じませんでしたね。むしろ不況の冬将軍の方が遥かにどっかりと居座ってしまった気がいたします。我々の現役時代にも何度か厳しい不景気に遭遇しましたが、今回の不況はそのスケールも及ぼす影響もこれまでとは比較にならぬほど甚大な事を肌身で感じます。
最先端の米国流金融工学なるものが如何にインチキな代物であったのか白日の下に晒される結果となりましたが、全世界を未曾有の混乱に巻き込んだ元凶の米国から反省や謝罪の弁がなぜか聞こえてこないのには強い憤りを感じます。
先日来我家の小さな畑に“フキノトウ”が次々と顔を出しています。毎年この時期てんぷらやフキノトウ味噌にして季節の香りを楽しんでいます。
Fukinoto_2
写真:我家の畑のフキノトウ
<九十九里浜>
先月伊豆で食べた地魚の味が忘れられず、10日ほど前に外房・九十九里浜方面へ家内と片道3時間の日帰りドライブをしてきました。ここを選んだのにはもう一つ理由があり、最近テレビでよく宣伝している温泉施設「太陽の里」を訪ねるのも目的でした。「太陽の里」は九十九里海岸のそばに建つ大型リゾート施設で、設備の豪華さはこれまで訪れた全国の温泉の中でもトップクラスにあると思いました。特に屋上に特設された露天風呂「天空の湯」から眺める太平洋の眺望は最高で、久しぶりに心からの解放感を味わうことが出来ました。
長年瀬戸内海を眺めて生活してきた我々夫婦にとっては、青く広い海原を眺め潮風を肌に感ずる時が何と云っても最高のストレス解消になります。
その後、奮発して注文した“船盛のお造り”は新鮮な地魚満載で大満足しました。首都圏からでも伊豆や房総半島まで足を延ばせば瀬戸内に負けぬ旨い魚を口にする事が出来るのがわかったのでこれからも時々遠出してみたいと思っています。
Kujyukurihama
写真:九十九里浜
<小説「弥陀の舞う島」>
昨年の末、フジテレビで「風のガーデン」と云う連続ドラマが放映されましたが、見られた方も多いのではと思います。中井貴一演ずる末期の膵臓癌に蝕まれた医師を、父親である緒形拳演ずる田舎の老医師が一緒に暮らした家でその最期を静かに看取ると云う内容のドラマでした。美しい北海道・富良野の四季を背景に、家族愛や取り巻く人々の友情を見事に描いた感動的な作品だったと思います。ドラマを見た人々は、否応無く“死”と云う問題を直視したのではと思います。
先日家内の母校県立三津田高校(呉市)の同期会世話役より、同級生だった松浦尊麿氏が「弥陀の舞う島」と云う小説を出版したので読んで欲しい旨のメイルが舞い込みました。三津田高校は呉では戦前から進学校として知られ各界で活躍している卒業生も多く、同窓会の活動も結構盛んな様です。
松浦氏は、瀬戸内海に浮かぶ蒲刈島にあるお寺の息子さんで、大阪の医科大学を卒業後地方のケア医療に長年力を注いでこられた方だそうです。
小説は著者の生れた島、蒲刈島を舞台に過疎地で医療,看護,介護の問題に苦悩する老人達の世界を医者の目から赤裸々に描いてありました。
私も呉に住んでいた頃、蒲刈島には遊びに行った事もあり、また会社関係の葬儀で島内のお宅を訪れた事もありましたので、小説中の描写は方言も含め具体的なイメージとして思い浮かべる事が出来ました。
小説に登場する老人達の老いによる気力,体力,知力の衰えと病魔の進行、回りの人々に対する気配りや遠慮,孤独感など読者にも強く伝わるものがありました。特に生まれ育った土地や家,地域の人々に対する執着には理屈抜きのものがあり、これは誰も侵害する事の出来ない基本的人権そのものの様に感じました。
著者が言いたかったのは、国や地方自治体による今の医療,福祉行政は本来あるべき姿とは乖離しておりもっと血の通った別のやり方があるはずだ、皆がこの問題を直視して一緒に考えて欲しいと云う事だと思いました。
人間は他の動物と違い死に際して“DIGNITY(尊厳)”を最優先させねばなりません。残念ながら人間が墓に入る迄には己の尊厳を保つために回りの介助がどうしても必要になります。安らかに天国へ旅立つ事の出来る地域の医療・福祉態勢の整備は現在の日本にとって喫緊の課題だと考えます。
Kamagari_island
写真:蒲刈島(呉市・野呂山頂展望台より 平成13年撮影)
最近映画「おくりびと」がアカデミー賞(外国語部門)をとったニュースが大々的に報じられておりますが、これが若い人にとって死と云うものを真剣に考える機会になってくれれば大変意義深いことであると思います。
今回は少々重い話題になってしまったこと悪しからずお許し下さい。
書籍の紹介  書籍名:「弥陀の舞う島」著者:松浦尊麿(まつうら たかまろ)
         出版社:日本文学館   価格;1300円
おわり

| | コメント (0) | トラックバック (0)

会社の評判

日吉通信(H20年11月23日)
今年も日吉駅前の慶応大学日吉キャンパス銀杏並木が黄金色に輝き、年の瀬が近い事を否応なしに感じてしまいます。世の中、世界的な金融危機や国内政治の混乱など将来に不安を抱かせるニュースばかりで明るい気持ちにはとてもなれませんね。
昨日近くのガソリンスタンドに給油に行ったのですが、リッターなんと117円まで下がっているのに驚きました。つい先日まで170円を超えていた事が信じられません。考えてみると昨年来の原油価格の狂気じみた高騰は、一握りの強欲な投機筋や機関投資家のなりふり構わぬマネーゲームによるものですが、全世界の真面目に働いている人々の生活を窮地に陥れるこの様な連中は決して許してはならないと思います。国内石油業界の価格競争は資本主義のお手本のように機能している様ですが、最近鉄鋼業界の価格カルテルのニュースが大きく報じられ考えさせられてしまいました。
My_garden
写真:我が家の庭の秋
<会社の不祥事>
昨今テレビや新聞誌上で国内鉄鋼メーカー数社による亜鉛メッキ鋼板カルテル摘発のニュースが大きく報じられており、私もOBの一人として心配しています。リタイア後年月が流れ詳しい情報を知っているわけではありませんが、我が日新製鋼はその中にあって損な役割を演じざるを得なかったのではと想像しています。
“利口な”他社に比べ良くも悪くも日新は“田舎者”であったのではと思います。残念ながら少々脇が甘かったのではないでしょうか・・・。
抜け駆けした一社だけ告発を免れた様ですが、したたかな彼らの身のこなし(法務対応)を見習って欲しいものです。東京地検が入って本社はピリピリとした環境の中にあり、社員たちも肩をすくめている事でしょう。
ただ会社の不祥事に関しては、本社より地方の工場で働く一般社員たちの方が遥かに肩身を狭くしているはずです。それは彼らが地域社会と密着し、社員意識を周囲に対しより強く持っているからにほかなりません。
私は20年前呉製鉄所で発生した高炉のガス爆発事故を思い出しました。昭和63年7月、第二高炉のオーバーホール完了直後、熱風炉燃料ガス管内爆発により4名の犠牲者と30名を超える被災者を出すと云う社の歴史始まって以来の大惨事に直面しました。
確か夜中の1時過ぎだったと思いますが、上司が自宅から電話で「製鉄所内でガス爆発事故があったらしい。詳細はわからないが直ちに本事務所へ出頭するように」との連絡を受けました。私が駆けつけた時はまだ事故の直後で対策本部も出来上がっていない状態でしたが、1時間ほどで大勢の管理職や関係者が駆けつけそれぞれ被災者の救出・救護,原因究明と設備復旧,警察・消防や関係官庁への対応,製鉄所全工程の応急操業プランの策定など色々なグループが有機的に動き始めました。製鉄所は常日頃からこの種の緊急時の訓練を徹底して行っているためか、時間とともにボトムアップで事故対策本部が立ち上がり一本の指揮命令系統が確立してゆく様には目を見張りました。
私は製鉄所内でも最下流の熱延工程を担当していましたので、災害現場での役目は指示されませんでしたが、会社側の人間として犠牲者の一人の担当を命じられ、駆けつけた家族の方々への対応や、警察署に設置された安置所から検視を受けるため広島市内にある大学病院まで遺体に同行しました。暗い待合室(丁度その日は土曜日の閉院日)で数時間待ったのですが、これほど時間の経つのが長く感じられた事はありませんでした。
検視が済んだ後遺体を会社の救急車で自宅まで送り届けたのですが、大勢のご家族,親族の待っているお宅に上がる時の敷居の高かった事は今も忘れられません。
当日は私の人生にとってまさにTHE LONGEST DAY でしたが、この惨事の一応の後始末がつくまでにはその夏いっぱいを要しました。
この間社員はひたすら謹慎し、買い物など市内の人通りの多いところに出るのも憚られる思いでした。私の担当する熱延工場は長期間深刻な鉄源不足に陥り、変則的な操業を強いられましたが何とか会社の危機を乗り切る事が出来たのは不幸中の幸でした。私がこの事件を通じて感じたのは持ち場持ち場で会社の危機に進んで真正面から立ち向かおうとする頼もしい社員が大勢いた事でした。会社に何日も泊り込み、火中の栗を拾おうとする人たちの姿には感動しました。私の直属の部下であった係長の一人は、たまたま当日山口県方面へマイカーで旅行中でしたが、カーラジオで事故を知り旅行を中断、そのまま会社まで数時間かけて駆けつけてきたのには感服しました。
もちろん事故と距離を置こうとするするケチな管理職や、スタンドプレーをする人も散見はされましたが、大部分の社員は会社の危機に際し自己のベストを尽くそうと皆一生懸命でした。これは社員が会社に対し強い信頼と愛着を持っていたからだと思います。私は現在の社員もこの誇るべき伝統を受け継いでいるものと信じています。どうか一日も早く今回の不祥事を清算し世の中に信頼され愛されるに日新製鋼を取り戻してくれるよう心より願っています。
おわり

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日吉台海軍地下壕見学

日吉通信(H20年3月28日)
寒かった今年の冬もようやく過ぎ去り桜満開の季節がやって参りましたが、皆さん如何お過ごしでしょうか?
月初には横浜・三渓園に梅を見に行ったり、数日前にはうららかな陽気に誘われて調布市・深大寺まで出かけてきました。我が家の周辺も“桜ヶ丘”など桜の名所が多く、ここしばらくは散歩コースを選ぶのに苦労しそうです。 
Jindaiji_park
写真:調布市神代植物公園

<日吉台海軍司令部地下壕跡見学>

慶応大学日吉キャンパス内に旧海軍軍令部や連合艦隊司令部の地下壕が残っている事は知っていましたが、非公開施設のため一度見学するチャンスがあればと前々から思っていました。最近地区の自治会文化部が、地下壕保存会の協力を得て見学会を企画したのでさっそく参加を申し込みました。当日は強風の吹き荒ぶ寒い日でしたが、13時に日吉駅前の広場に約40名が集合しました。大半はシニアの方々でしたが中には戦時中日吉地区の空襲に遭遇した人たちもおられ、地域住民の関心の高さをあらわしている様でした。
始めに保存会のメンバーによる地下壕の詳細な説明が行われた後、大学キャンパスの裏山にある壕の一つに保存会メンバーに引率され各自懐中電灯を握って入場しました。
予想に反し地下壕内は本格的な造りで天井も高く足元も乾いており、空気の流れを考慮した設計がなされていたためか内部に至るまで新鮮でかび臭い臭いなどは全くしませんでした。
ここは敗戦が濃厚になった頃、米軍の攻撃を避けるため海軍軍令部や連合艦隊司令部を陸上に移すこととなり、霞ヶ関と横須賀基地の中間にある日吉の地に白羽の矢が立ったのだそうです。それまで慶応義塾予科の校舎や寄宿舎として使われていた施設がそのまま海軍に接収されたとの話でした。
海軍中枢の施設だけに米軍の爆撃にも十分耐えうるだけの強固な地下壕が造られたそうですが、主力の艦船や航空機を殆ど失ってしまった司令部の将官たちはどんな気持ちで日々を送っていたのだろうと考えてしまいました。私は長年広島県・呉市に住んでおりましたので、戦艦大和に対する想いと愛着には強いものがあります。待ち受ける運命を知りながら沖縄への出撃命令を下した側、下された側の人々の気持ちを想う時何とも言えない複雑で重い気持ちになりました。
地下壕保存会の方々は、終戦直前の日吉地区空襲の記録を当時住人だったお年寄りの話を聞きながら体系化する作業を行っている最中だそうです。終戦後60年が経過し戦争の記憶が次々に失われて行く昨今、この様な地道な活動をボランテイアでやっておられる名も無い市民の方々の努力に心からの敬意を払いたいと思いました。
Hiyoshidai

<戦中・戦後の思い出>
私は戦時中の昭和17年生れですが、弟が病弱だったため広島県呉市に住む祖父母のもとに預けられしばらくそこで育ちました。両親はその当時、北九州・八幡にある官営八幡製鉄所の社宅に住んでいました。
私の戦争の記憶にあるのは終戦直前から直後にかけての惨憺たる情景のみです。
米軍の夜間爆撃で空が真っ赤に焼けた呉港を祖母の背中から眺め「きれい!」と叫んで怒られた瞬間を今もはっきり覚えています。当時私はまだ3歳に達していませんでしたが…。
祖父母の家は呉市の山手にあったので類焼は免れましたが、近所の人たちと空襲の際橋の下の避難所に隠れ、川の流れに足を浸して遊んだ時のひんやりした感触が今も忘れられません。
昭和20年8月、原爆(当時はピカドンと呼んでいた)が広島に投下された直後、身内を捜しに祖父母と広島駅周辺へ出かけた事がありました。駅の周りにはムシロに横たわった大勢の人たちが並んでおり、その一人一人の顔を確認しながら探して歩いたのを思い出します。その時点で大部分の方は既に亡くなっていたと思いますが、あまりの悲惨さに子供心にも大きなショックを受けました。
この様な残虐な原子爆弾を投下した米国に対して日本人はどうして怒らないのでしょうか?末代にわたるまで日本人はこの恨みを忘れるべきでないと思うのですが・・・。
終戦後両親の住む八幡に戻ったのですが、八幡製鉄の管理職社宅のうち洋式の建物はすべて占領軍に接収され、米軍高級将校の数十家族が住んでいました。警備の黒人兵が銃を構えて社宅街をパトロールしている様子を恐る恐る遠巻きに眺めたものです。そんなわけでアメリカさんの夢のような生活の様子を毎日目前で見る事になったのですが、家の中に垣間見える大きな冷蔵庫や豪華な応接セット、自家用車、スクールバスによる子供たちの通学風景などを見て、そのあまりの生活レベルの格差に息を呑みました。日本の子供たちの中にはチューインガムやチョコレートを貰って米国人少年たちの野球遊びの相手をする連中もいましたが、私自身は多分臆病だったのでしょう加わった事は一度もありません。
昭和26年、日本がサンフランシスコ講和条約により独立した日に、悪友仲間と一緒に近所に住むジミーと云う子を「日本は独立したんだから今後デカイ面をするな!」と殴って泣かせたのを覚えています。ただ米国人はおしなべてフレンドリーだったため、私のまわりの日本人の大部分は彼らに親近感を抱いていたように思います。
多分当時の生活格差は現在の北朝鮮と日本に置き換えられる程あった様に思います。
小学校に入学した時は、教室の数が足らず午前,午後の二部授業でした。最初の給食は米軍支給の脱脂粉乳にサッカリンを加えた不味いミルクでした。毎月曜日には校庭で行われる全校朝会の後、これも米軍支給のDDTを頭から真っ白になるまでかけられました。
朝鮮戦争が始まり、出征する大勢の米軍の若い兵隊達が小倉駅前に整列しているのをよく見かけるようになりました。彼らの内の大半は戦死したものと思われますが、日本人はもう死ななくても良くなったのだと言った小学校の先生の言葉が忘れられません。
今思えば当時は貧しく荒んだ世界だったと思いますが、人と人との心の繋がりは、今よりもっと温かく濃密だった様に思います。日本人は豊かさと引き換えに今ではもっと大切なものを失ってしまった様な気がします。
おわり
Mitsuike_park
写真:満開の桜(今朝撮影 鶴見区・三ツ池公園)


| | コメント (0) | トラックバック (0)

遠い夏の日

日吉通信(H19年8月25日)
この夏の暑さは尋常ではなかったですね。私の記憶でもこれ程長期間続いた猛暑は過去に例が無かった様に思います。
当方、夏休みシーズンは家でおとなしくしておく主義を貫き遠出など控えておりました。
お盆の期間もカレンダー通り京橋の事務所に通いましたが、照返しで灼熱と化した都心を歩く時の息苦しさは目まいを催す程です。
今月はじめ横浜の運転免許センターへ更新手続に出かけて来ました。前回迄は呉で更新しましたので当地では初めての手続きでした。70歳になると更新期間が3年に短縮され都度高齢者のための講習や試験などが課せられると聞き、あと僅か5年でその仲間入りとなるのかと思うと余命も少なくなった事を痛感させられました。
そう云えば先日私にも“介護保険証”が送付されてきましたが、何だか妙で嫌な気分になったものです。
先日、最近オープンした大型ショッピングモール“ららぽーと横浜”のシネコンへ家内と映画を見に出かけました。「プロヴァンスの贈りもの」と云うロマンチックなタイトルの映画でしたが、なかなか面白い作品でした。
先月見た「魔笛」もそうですが、マイナーな映画なので100人程度収容の小さなシアターで日に3回ほどしか上映されていません。しかも館内は半分程度の入りで興行的には決してペイしていない様に見えました。人口の絶対数が少ない地方都市の場合は、この様な映画はなかなか上映されるチャンスが少ないのではと思います。
大都会の生活は息が詰まりそうで好きではないのですが、文化的な雰囲気に触れるチャンスについてはやはり首都圏に住むアドバンテージを感じた次第です。
Mutekiro
写真:フレンチレストラン「霧笛楼」 (元町)

<遠い夏の日>
東京青年会議所のメンバーをしている長男は、今年も8月初旬に中央区の小学生を引率して伊豆の海岸へ合宿に出かけました。都内の小学校は運動場も狭くコンクリート張りなど四季を感じさせるものが無く、情操教育の点からもこの様な合宿は都会の子供たちにとって非常に貴重な体験になるものと思います。
今回はたまたまテレビでも大々的に報じられたシュモク鮫の捕獲現場に遭遇したそうで、子供たちもショックを受けた様ですが得難い思い出になった事と思います。私が小学生の頃は北九州の八幡に住んでいましたが、毎夏玄界灘に面する海岸へ林間学校に出かけたものです。市内から2時間ほどポンコツのボンネットバスに揺られ、車窓に突然青い海が開けた時はまさに血が騒ぐ様な興奮を味わいました。到着後水着に着替え焼け付く様な熱砂の上を駆けながら波打ち際へ突進し、海水に体を洗われた時のあの冷たい感触は今も忘れることが出来ません。夜は満天の星空のもと心地よい海風に吹かれながら波打ち際で花火を楽しんだり、朝は地元のラジオ体操のグループに入って見知らぬ子たちと一緒に体操し、持参したカードに地元のおじさんから参加印を押して貰いました(この印は帰っても有効で、子供にとっては新学期に提出する大切な参加証明でした)。
子供の頃は夏休みが随分長く感じられたものですが、アスファルトの溶けるような路上で近所の腕白仲間たちと缶蹴りや隠れんぼ,蝉取り,チャンバラ,肉弾など頭から湯気をたてながら遊んだ事を想い出します。当時は夏休みに帰省した近所の大学生のお兄さんたちが一緒に遊んでくれ、彼らに褒めてもらおうと暑さを忘れ張り切ったものです。遊び疲れると近所のお宅に上り込み冷えたスイカをかぶりついたり・・・と当時は映画「3丁目の夕日」の世界そのままでした。
現在と違いテレビもエアコンも無い時代、子供たちの生活・健康管理や洗濯など当時の母親は大変だったと思います。地鳴りの様な蝉の声、金魚売りの老人の姿、土砂降りの夕立後の爽やかな冷気などなど遠い昭和の夏の日の思い出が今懐かしく蘇ってきます。
おわり

| | コメント (0) | トラックバック (0)

遥かなる南アフリカ

日吉通信(H19年1月27日)
今回はスペインに続いて、南アフリカにおける海外技術援助の思い出を記してみたいと思います。これは私にとって現役時代最後の大仕事で、思い出深く愛着のあるものです。我々が現地へ乗り込んだ当時(1995年)は、南アフリカ共和国に黒人のマンデラ大統領が誕生して日の浅い政情不安定な時期でした。出発前に本社海外事業部長がリーダーの私を呼び「現地に着いてもし身に危険を感じる様であれば、貴君の判断で直ちに全員を引き連れて帰国して欲しい。後の責任は全て私が持つから・・・」と真剣な眼差しで言われたのを良く覚えています。
Drkoenitzer_mrboshoff
写真:技術援助統括ケニッツアー博士(テイッセン社)<左>とボショフ社長(コロンバス・ステンレス社)<右> 南アフリカ・ミドルバーグ市郊外の社長邸にて
<プロジェクトチームの誕生>
プロジェクトリーダーの辞令を貰ったのは1993年のことでした。南アフリカ共和国のミドルバーグ市に世界最新鋭ステンレス製造一貫工場の建設計画が持ち上がり、テクニカルサプライヤー(技術全般の指導)の役目をドイツの鉄鋼メーカー・テイッセン社が受け持つことになりました。しかし彼らには熱延工程(ステッケルミル)の経験が無かったため、過去にスペインで実績のあった日新製鋼に協力要請の話が来たわけです。
社内もこの仕事の特殊性や困難な事情を良く理解してくれ、プロジェクトメンバーの人選に当たっては各部門よりエキスパートを集めた15名弱のドリームチームを編成する事が出来ました。また本社の優秀な語学スタッフを専属で付けて貰い、会社の歴史の中でもあまり例が無い最強のチームが誕生しました。
プロジェクトチームが発足してから現地へ乗り込むまで約1年半ほどの時間がありましたが、この間南アから送付されてくる図面や運転法案のチェックやコメント,各種質問への回答,現地実習生の呉製鉄所への受け入れ指導それに南アやドイツ,英国で開催される技術打合せなど盛り沢山の業務が連続し、残された日時はアッと云う間に過ぎ去ってしまいました。
Middelburg_2
<コロンバス社とミドルバーグ市>
日本から南アフリカへ直行便は無いため、シンガポールで飛行機を乗り継ぎ 待ち時間を含めて20時間のフライトの末ヨハネスブルグ空港へ到着、その後高速道路を車で2時間走って目的地のミドルバーグ市に辿り着く長旅は時差の影響,季節の逆転も加わり何度経験してもクタクタに疲れる強行軍でした。
ミドルバーグ市は南アフリカの東北部、イースタントランスバール州に位置する内陸の小都市で、有名なクルーガー国立公園からも遠くなく海抜1500m前後の緑の平原が延々と広がっています。 
我々の宿舎は市郊外にあるゴルフ場のロッジで、ドイツ・テイッセン社のメンバーと一緒でした。部屋は12畳大のベッドルームとバス・トイレそれにシャワールームが備わっており、またゴルフコースに面してサンデッキがついていました。休日には部屋からそのままカートを引いてグリーンに出られるというゴルフ好きには正にパラダイスの様な環境でした。
貸与されたレンタカーでコロンバス・ステンレス社までは15分ほどでした。市内には郵便局や銀行,病院,スーパーマーケット,レストラン,商店など一通り揃っており、米国の田舎町に似た感じです。工場では建設現場の傍に簡易プレハブを事務所として提供されました。掃除や雑用を行う黒人の若者をつけてくれたのですが、いつもどこかで油を売っている姿を目にしました。
Golf_compe
写真:日新製鋼主催ゴルフコンペ(ミドルバーグカントリークラブ)
<現地での技術援助活動と成果>
現地へ渡ってからの主要な業務は、コロンバス社に代わって英国DAVY社ほか各国設備メーカーに対して建設,試運転中の設備性能を評価し問題点を抽出、改善や要求を行う役割を担いました。また試運転(ホットラン)開始以降はコロンバス社熱延担当者に対し操業や品質など実地技術指導を行いました。私が感じたのは南アフリカの人たちは旧宗主国である英国に少なからぬコンプレックスを抱いており、英国側に面と向かって物を云う事に遠慮があるよう感じられました。そんなわけで我々の存在はDAVYにとってははなはだ煙たいものであったと思います。
コロンバス社の責任者が会議における各国出席者の特徴を次の様に例えていました。「ドイツ人は会議10分前に待機する、日本人はジャストインタイムにやって来る、英国人は5分後に悠々と乗り込む、南ア人は頭を掻きながら10分遅れで着席する」。確かに南アの人(白人)にはノンビリしたところがありましたが、社内での人間関係や教育訓練を大切にするメンタリテイはかっての日本人に良く似ている様に感じました。
多国籍のビッグプロジェクトに参画して痛感した事は、やはり言葉のハンデイでした。我々にも優秀な語学スタッフがおりましたが、複雑で利害の絡んだ技術的問題を討議しあう時に味わった発狂しそうな程のストレスは今でも夢に見るほどです。
「技術屋同士なら片言英語と手まね,筆談だけで十分に意思疎通は可能だ」と言う大先輩がおりましたが、これは本当の修羅場を知らぬ人のせりふだと思います。唯一日本チームのアドバンテージは大きな時差(7時間)でした。前日に受けた質問や宿題を本社にFAXで送っておけば、寝ている間に日本から回答が届き翌朝の会議の席で報告する時、周りがその迅速さに感嘆するのは実に快感でした。
9ヶ月間の派遣期間を通じ日新チームは一件の契約上のトラブルも発生させず任務を全うしたため、我々の仕事振りは高く評価されコロンバス社の社長からもお褒めの言葉を戴きました。
Davys_hot_mill_1
写真:英国DAVY社製 熱間圧延設備
<家内の来訪>
南アに来て数ヶ月が過ぎ設備の立ち上げもほぼ見通しが立った時点で、私を含む数名を残しチームの本体は帰国しました。この時点で家内を現地に短期間ですが呼ぶ事にしました。
スペインの時とは違い二人の息子達も成長して東京へ出ていましたので、家内も身軽に出てくる事が出来たようです。コロンバス社の好意でビジネスクラスの航空券を渡され、はるばる単身でヨハネスブルグ空港までやってきてくれました。
現地には約2ヶ月ほど滞在しましたが、テイッセン技術者やコロンバス社幹部の奥さん連中と親しくなり、一緒にお茶を飲んだりピクニックに出かけたりと私が仕事中も楽しい時間を過ごせた様です。
休日には二人で近郊をドライブしたりヨハネスブルグやプレトリアへ買い物に出かけたりしました。クルーガー国立公園にも招待を受け数日間サファリでの生活を楽しみました。
またケープタウンにも足を伸ばし、テーブルマウンテンからの絶景を眺めたり有名なワイナリーを巡るツアーに参加して芳醇な南アのワインで結婚25周年を祝ったりもしました。
思い出深いのは、コロンバス社のボショフ社長より夫婦で自宅へ招待を受けた事です。社長の邸宅は近郊の広大な牧場の中にあり、敷地は遥か地平線まで広がっていました。
お宅では奥様手作りの食事をご馳走になり、牧場の生活について楽しい会話が弾みました。帰りには産みたての卵をお土産に頂戴し、ご夫妻の暖かい人柄に感動してしまいました。ご夫妻は数年後不慮の事故でお亡くなりになりましたが、本当に素晴らしいカリスマ性のある経営者であったと今も懐かしく思い出します。
家内と過ごした南アフリカでの2ヶ月間は、思い返すと我が人生の中でもまさに夢のような特別な日々だった様に思います。

<南アフリカの人々との触れあい>
南アフリカは悪名高い人種差別政策アパルトヘイトで世界中に知られていたため、東洋人である我々日本人が不愉快な思いをした事は無かったかと良く聞かれました。答えは全くのノーで、現地では身近にいる人たちだけでなく、町中で出会う見知らぬ人たちも親愛と敬意を込めて我々に接してくれました。
南アの白人は内気で純朴な人たちが多く、良い意味で不器用な田舎の人と云った感じがしました。家庭も子供が4人前後の大家族が普通で、日曜日には一家で教会に行く…と云ったかっての古き良きアメリカ社会に似ている印象を受けました。
言葉はオランダ語がルーツのアフリカーンスと云う固有の言語と英語の二本立てで、全員がバイリンガルです。
人口の9割を占める黒人はまだまだ貧しい生活をしており、都会では白人に遠慮しながら生活している様でした。南アの黒人は米国の黒人とは違い小柄で貧弱な体格の人たちが多くあまり圧迫感はありません。また無学で向上心の無い無気力な人たちばかり(これは白人側に責任あり)と云う印象で、今後の国造りは前途多難に思えました。
我々は良く現地のお宅に招待を受けましたが、彼らの家はどこも高い塀に囲まれ番犬を何頭も飼っています。塀の中は見事に刈り込まれた芝生とプールがあり邸宅も広く実に豪華なものです。どこも黒人のメイドを雇っており、芝の手入れも黒人たちにやらせているようで、白人社会の優雅な生活は黒人達の犠牲の上に成り立っているのが良くわかりました。現在の南アフリカ共和国は黒人政権の国家ですが、黒人達も白人の力が無ければ国を維持できない事がわかっているのか両者の微妙な均衡の上に国が成り立っているようです。
南アの白人達は黒人を蔑んでいるのが見て取れましたが、マンデラ大統領(当時)だけは例外で、白人の誰もが彼の人格や実績に高い信頼と敬意を払っておりました。

<おわりに>
南アフリカでの技術援助業務はすべての面で過去のスペインのそれとは違っていました。
まず我々の位置づけがドイツ・テイッセン社のアンダーであり日新製鋼の影響力が期待できなかった事、また介在する設備メーカーが英国など経験の無い欧州勢であった事です。当初熱延設備は日立製作所が納入するとの観測が大勢で、これを前提に日新製鋼の関与の話が進められていたため、突然英国DAVY社に受注をさらわれた時はまさに晴天の霹靂でした。ただDAVY社の技術力も当初懸念した程のものではなく、予想外にしっかりした仕事をしてくれたことは本当にラッキーだったと思っています。
また技術援助先のコロンバス社は、ステッケル熱延に関しては長年の経験者であり、タンデム熱延しか知らない我々にとっては大きなハンデイを抱えての技術援助でした。例えて云えば“ソフトボールのチーム育成を、野球のコーチ陣が担当する”のに似た困難な(少々無理な)ところがあったのは事実です。社内で「同じ熱延なのだから“応用問題”で出来るハズだ」と気楽に云う役員もおられ本当に困りましたが、結果としてハッピーエンドに終わらせることが出来て幸いでした。
帰国の際、先方の熱延関係の幹部から「製鋼や冷延におけるドイツ人の技術指導に比べ日新のそれは数段優れていた。我々は日本人と組む事が出来て本当に良かった」と言って貰った時には長い間の苦労が報われた気がしました。
我が会社人生として振り返っても、スペインに続いてこの様な面白い貴重な体験をさせて貰った事は一生の財産になったと感謝しています。
Africa_1
写真:クルーガー国立公園
南アフリカには象やライオン,キリンなど野生の動物が生活する雄大な自然、またケープタウンに代表される南部の切り立った美しい海岸線などは日本のそれとは全く異質な世界です。日本人にとってアフリカはあまりに遠く実感の湧かない別天地ですが、欧州の人たちにはアフリカは一種のノスタルジーを感じさせる特別な土地柄である事が良く理解できました。メリルストリープとロバートレッドフオードが主演する米映画「Out of Africa(原題)」(1985年)のBGMでお気に入りになったモーツアルトのクラリネット協奏曲のCDを時々聴きながら、遥かなる南アフリカの大地と人々の営みに今も思いを馳せています。   

| | コメント (0) | トラックバック (0)

スペインの思い出

日吉通信(H18年9月27日)つい一月前の猛暑が嘘の様な清々しい秋の訪れに生き返る気分ですが、夕方6時近くになるともう暗くなり今年も残り少なくなってきた事を感じさせる今日この頃ですね。こちら9月に入ってからも結構慌しく、気忙しい毎日を過ごしています。仕事の方も相変わらずですが、この度事務所にパートの女性が一人加わる事になり休みがとり易くなりました。考えてみると私もこの秋で法律事務の仕事を4年間続けており、勤続年数だけは中堅?の部類に入ってしまいました。今月は7月に続いて若かりし時代のスペインの思い出を振り返ってみたいと思います。

◆◆スペインの思い出◆◆
<アセリノックス・プロジェクトチームの誕生>
毎年8月12日の御巣鷹山日航機墜落慰霊祭の様子がテレビで放映される度に、21年前のスペイン出発の日の不安な想いが蘇ってきます。
スペイン南端ジブラルタル近くにあるアセリノックス社のステンレス工場に新鋭の熱間圧延設備が導入される事となり、すでに製鋼,冷延工程で技術援助実績のあった日新製鋼が熱延の援助も行う契約を締結しました。そして我々呉製鉄所で熱延に従事していた20名近いメンバーにプロジェクトチームへの異動の辞令が下り、一年後の日航機墜落事故の直後(数日後)にスペインに向けて成田を飛び立ったわけです。
当時は現在の様に交通,通信が発達していない時代で、ヨーロッパの西端への派遣は大袈裟に云えば兵隊さんが外地に出征するのと同じくらいの悲壮感があったと思います。
プロジェクトチームは現地派遣までの間、プラントメーカーであった日立製作所との圧延設備仕様や運転法案の検討から、実習生受け入れの準備,実地指導,生活環境整備に至るあらゆる業務を遂行しました。
当時私は40代に入ったばかりの新進気鋭の管理職でファイト満々の時期だったと思います。私の任務は10名近い操業担当メンバーを統括し、技術指導の推進とスペイン側との折衝に当たることでした。
スペインからはるばる呉までやって来た30名近い実習生は全員が熱延の未経験者で、中には羊飼いや大工さんなども混じっており、呉製鉄所でイロハから半年近くをかけて教育訓練をしたものです。国民性の違いに起因する誤解やトラブルなど尽きませんでしたが、長期間の実習を無事終了させ彼らを帰国させた時には本当に肩の荷が軽くなったのを覚えています。現地に渡ってからも苦労は続きましたが、国内での実習訓練の方が私にとっては余程ストレスが大きかった様に思います。
ただ我々呉製鉄所の人間にとってこの初めての体験は、その後現地での技術援助の推進に大きなプラスとなりました。
<スペインでの技術援助の思い出>
工場へは現地の宿舎から会社のマイクロバスで20分ほどかかりましたが、夏場もサマータイムが導入されているせいで、いつも夜明け前の薄明かりの中の出勤でした。
我々が現地に到着したのは建設工事も7割方完了した時期でしたが、その後のコールドラン,ホットランを控え戦争の様な殺気立った毎日の中に突然放り込まれた感がありました。
大掛りな新設備の立ち上げには避けられないことですが、毎日次々と新しい予定外の問題や設備調整が発生し、宿舎に帰るのはいつも夜中近くになってからで、周辺ののどかな環境が恨めしく感じられるような精神的にも肉体的にもしんどい生活が続きました。
11月の初旬の夜になって初めての実圧延(ホットラン)が衆目監視の中で始まりました。万全の態勢で臨んだ我々が固唾を呑んで見守る中、加熱炉から1200度に加熱された約10トンの鋼片が抽出され、粗圧延機で数パス圧延された時点で突然全停電となりました。主電源系統の異常発生が原因でしたが、順調に圧延が進行していただけに本当に悔しい思いをしました。真っ暗闇の工場の中でテーブルローラー上の加熱された鋼片だけが黄色く鈍く輝いていたのを今も鮮明に思い出します。
年末近くになって少しずつ操業も軌道に乗り始めたのですが、この時点で我々の総責任者(ゼネラルコーデイネータ)が呉製鉄所に帰り、これ迄全くスペインとは無関係だった人に交代させると云う人事が発令されてチーム全体が動揺しました。外見的には峠を越した様に見えたのでしょうが、実態はそんな安易なものでなくスペイン側には非常に心外だった様で、しばらくの間双方の関係がギクシャクして困りました。
その後、薄ゲージ圧延や難圧延鋼種の投入などこれからと云う時期にスペイン側も“もう大丈夫”と判断したのか、技術援助料(マンデーフィ)節約のため我々メンバーの一部を指名帰国させる提案を突然持ち出され驚いてしまいました。何とかこれは引っ込めさせましたが、スペイン人のドライさを見せつけられた気持ちでした。
その後紆余曲折はありましたが、我々が一歩一歩確実に実績を示した結果双方の関係は見る見る好転し以前の良好な関係に戻ってゆきました。
Acerinox_steckel_mill
写真:アセリノックス社熱延工場のステッケルミル
スペインでの仕事がうまくいった主因はやはりプラントメーカーが日本勢(日立製作所)であった事だと思います。
日立の技術陣は実に優秀で経験豊かであり、日本人同士お互い助け合いながら仕事を進める事が出来、敵対するような事は一度も生じませんでした。会議でも日本語主導で物事が運ばれることが多く、言葉のハンデイはむしろスペイン側が感じていた様に思います。
スペインでの仕事を始めてから8ヶ月が経過した時点で、ほぼ初期の目標が達成されたため帰国する事になりましたが、私は先方からの要請でそのまま3ヶ月間残留してその後を見届けました。幸いな事に設備の稼動率や操業技術も着実に進展し、帰国する前日迄に数十項目あるアクセプタントテスト(引き渡し実証テスト)の全てをクリアする事が出来、日立側からも大いに感謝されました。帰国の際、アセリノックスの工場長より私に贈られたロンジンの金時計は今も大切にしています。
スペインへは帰国後一年程して再度来訪の要請があり、その時は単身で4ヶ月間出向きました。アセリノックス社は今では世界屈指のステンレスメーカーに成長し、その影響力は日新製鋼を凌ぐまでになっています。その発展の過程の一翼を我々が担えた事を今も誇りにしているところです。
<懐かしいスペインでの生活>
私が11ヵ月間生活する事になった宿舎は6階建の退職者用長期賃貸マンションでした。目の前は青い海と白い砂浜が続き、沖合いにはジブラルタルの巨岩が望め、ビーチではセニュリータ達がのんびりと甲羅干しをしていると云うロケーション的にはまさにパラダイスでした。
私の住いは1階に広いLDKとバスルームがあり、2階には3つのベッドルームがあると云う単身生活者には勿体ないような素晴らしい環境でした。
小さいながらも海側にはバルコニーがついており、休みの日には波の音を聞きながら静かに読書するのは最高の贅沢でした。宿舎の隣には小さなホテルがあり、我々も食事や日本へ国際電話をかけに度々出入りしましたのでオーナーともすっかり親しくなりました。
Gibraltar
写真:宿舎の庭からジブラルタルを望む
宿舎から少し足を延ばすと有名なリゾート“コスタデルソル”で、地中海に沿った海岸線には世界中からの金持が集まる豪華で大規模な別荘地やヨットハーバーが続いていました。内陸にもイスラムの残した数多くの歴史的建造物や史跡などが散在し、そのエキゾチックな風情はアンダルシア地方独特のものでした。
毎日の食事についても彼らは実に優雅で、ゆっくり時間をかけて楽しみます。特に地中海の魚介類は新鮮で美味しく我々日本人の口にも良く合いました。私も頻繁に隣のホテルのレストラン(それ程高級でもない)で食事をしたのですが、食後のデザートとコーヒーの後にブランデーさらには葉巻まで出されたのには恐れ入りました。でもこれが彼らのやり方なのだそうです。
ゴルフにも年が明けてからは良く出かけました。リゾート地だけに近くに高級なゴルフ場が何ヶ所もあり、思い立った時にぶらりと出かける事が出来ます。プレー費は確か6000円前後と記憶していますが、現地の人たちにはともかく日本のゴルフ場の馬鹿高さに慣れている我々にとってはリーゾナブルな金額に映りました、
アンダルシア地方の人々には今もイスラムの影響が強く残っており、彼らの中には陽気さと合わせて哀愁や退廃がそこはかとなく感じられました。特に彼らが好むセビジャーナの音律や舞踊の中にそれが色濃く現れています。今も耳を澄ますとギターやカスタネットそして彼らの手拍子や掛け声が遥か遠くから聞こえてくる様です。
Carnival
写真:カーニバルの風景
<妻のスペイン来訪>
スペインへ渡った年の12月に、家内が単身スペインまで私を訪ねてきてくれました。冬休みになり小学生の息子二人を横浜の両親宅へ預けての大旅行でした。当時はヨーロッパへの直行便は無く、アラスカ・アンカレッジ経由の時代でした。家内にとっては生れて初めてそれも一人での海外旅行でしたが、ロンドン・ヒースローで無事イベリア航空に乗り換えてマドリッドまでやってきました。到着は丁度クリスマスイブの日で、当夜はトレドの古城ホテルに宿泊し、幻想的な古都トレドのイブを楽しみました。
年末休暇にはレンタカーでグラナダまで泊りがけの旅行に出かけました。静かなアルハンブラ宮殿やその周辺を二人でゆっくりと散策したのを懐かしく思い出します。
大晦日には隣のホテルのカウントダウンパーテイに参加させて貰ったり、元旦は宿舎の居間で家内がはるばる日本から持参したお餅やカズノコなど正月料理を一緒に食べたりしました。
家内は3週間ほど滞在し帰国しましたが、中でもドライブで立ち寄った内陸の小さな田舎町カサレスの白い家並みの美しさは今も強烈な印象として残っています。
Town_of_casares
写真:白い町カサレスの風景
<私の出会ったスペインの人々>
スペインからの実習生が呉から帰国して約3ヵ月後に我々は日本を発ったのですが、その間公私にわたり親身で面倒を見た我々に対して礼状の一通も来る事はありませんでした。何か不満があったのか?気に障る事があったのか?と大変に気を揉みましたが心当たりも無く、現地での技術指導に不安を抱きながらスペインへ赴いたものです。ところが現地へ着くや否や全員総出の大歓迎を受け、懸念は全くの杞憂に終わりました。
国民性の違いだと思いますが、彼らは日本人やドイツ人の律儀さや義理堅さ(狭義の)とは対極にある人たちの様です。ただ根は純朴で人懐っこく世話好きで陽気な連中であることがだんだん分ってきました。私が仕事で接したスペインのエンジニアやフォアマンたちも皆真面目で家族思いの人たちで、我々に対しても心からの信頼と親愛の情を示してくれました。
スペイン人はかっては世界を征した時代もあり、誇り高い国民ですが、今はヨーロッパの北の国々に対しある種のコンプレックスを持っているのが感じられました。(悪い例かもしれませんが、丁度東南アジアの人々が日本人に対して抱く感情に似ている様に思います) その裏返しになるのでしょうか、日本人に対しては親しみと尊敬の念を抱く人が多く、我々が見知らぬ土地を訪れた時にもそれを肌で感じる事が出来ました。
Invitation
写真:愛弟子のお宅に招待されて
同じ建物に住んでいたスペイン人家族のお嬢さんはミスアンダルシアに選ばれる程の美人でしたが、お宅にお邪魔した際に「私の目は“日本人の目”だ」と自慢していたのを思い出します。彼女たちはパッチリとした瞳よりも少し切れ長の目に憧れを感じているようでした。
スペインを最後に跡にしてから20年近くの時が流れてしまいました。今では現地の様子も随分と変わり、また一緒に仕事をした連中もそれぞれ歳を重ねているものと思います。
いつかまた彼の地を訪れて、一緒に頑張った仲間達と再会し、出来ればもう一度熱延工場を訪問して圧延機のあの回転音を聞いてみたいものです。ただ一方では若かりし時代の懐かしくも輝かしい思い出をあの時のままいつまでも心に留めておきたいとの気持ちも強く、現在も気持ちが揺れ動いているところです。
おわり

| | コメント (0) | トラックバック (0)

我が仕事の思い出

日吉通信(平成18年7月29日)
大学時代の恩師を囲むゼミの会が現在も続いており、今年50周年を迎えます。
この秋には各年次の卒業生全員に呼びかけて母校で記念祝賀会を催すべく準備が進められています。
私が大学生の頃、先生は30歳代の新進気鋭の助教授で、そのゼミ“加工学研究室”は人気を博していました。私も運良くこのゼミに入れたのですが、先生や当時の仲間達とは今でも交流が続いています。
50周年記念事業の一環としてゼミ卒業生による文集を作ることになりました。題目は各自に一任されているのですが、私は現役時代の仕事の思い出をエッセイ風にまとめて提出します。
今月の「日吉通信」はこれをそのまま紹介させて戴こうと思います。

<熱間圧延との出会い>
昭和41年、私が就職した日新製鋼は当時鉄鋼大手6社と言われていましたが、5位の神戸製鋼とは大きく引離された6番目の目立たない会社でした。
ただ薄板の製造に関しては業界でも定評があり、世界に飛躍しようとする日本鉄鋼業界にあって他社に伍して行く強い意気込みに溢れた会社でした。
就職が決まった年には呉製鉄所に米国から最新技術を導入した熱間圧延設備(ホットストリップミル)が稼動し、その後の日新製鋼の発展の足場が固まった画期的な年でもありました。
私は希望通り熱延工場に配属され、その後一貫して熱延操業にタッチする事となりました。当初機械科卒の私にとっては設備部門に進む方が本来の道のように思えたのですが、結果的には操業屋として次々と面白い経験をさせて貰いラッキーだったと思っています。
製鉄所を見学された方も多いと思いますが、熱延工場は高炉,転炉・連鋳と並び製鉄所の中では最重要の工程であり、24時間稼動で一日1万トン前後の熱延薄板(ホットコイル)を休みなく生産しています。その操業には繊細な技術が必要とされ、品質と生産性の両立が高度のレベルで要求される厳しい職場でした。
私は熱延工場では技術スタッフ、続いて操業現場責任者など長年にわたり従事させて貰いましたので、熱延はまさに天職となってしまいました。
今も耳を澄ますと熱延工場の騒音や板材を圧延するリズミカルな音が鮮やかに蘇ってくる様です。大勢の職場の仲間たちと事故や品質対策で現場を走り回った日々が懐かしく思い起こされます。

<海外技術援助の仕事>
入社間もない見習い時代に、部長から「おい、ドイツ・クルップ社の熱延工場長へ手紙を書き、先方のホットストリップミルの設備概要を送って貰え」と突然指示された事がありました。これまで全く経験が無い事だったのでドギマギしたのですが、さっそく市内の本屋で“英文手紙の書き方”と云う本を購入、辞書を片手に初めての実用英文レターを書き上げました。そして数週間後に先方から詳細な資料が届いた時にはいたく感激したのを覚えています。
考えてみるとこれが私と海外技術援助の仕事とのきっかけを作った最初の出来事だった様に思います。こんな事もありその後社内に新しく出来た“海外研修制度”の第一号としてヨーロッパに派遣して貰いました。3週間の日程と必要な費用を支給、どこに行き何をしても構わないと云う夢のような制度でした。
そんな経緯でその後スペインや南アフリカのステンレス熱延技術援助の仕事に引き出され、それぞれ数年間にわたって社内での実習訓練から新設備の立ち上げ準備、現地での操業指導などに携わる事となりました。
熱延工場は加熱炉,粗圧延機,仕上圧延機,巻取機およびそれらを駆動,制御する電気設備,コンピューターその他大掛かりな付帯設備を有する巨大な複合生産設備で、その投資には莫大な(現在では軽く一千億円を越える)資金が必要になるため、ふつう設備更新は数十年に一度の大事業となります。この設備更新にタイミング良く巡り合う事の出来る技術者はほんの一握りに限られ、まさに運次第です。
戦争を経験して初めて一人前の軍人になると云われていたように、この建設や設備の立上げを体験して初めて本当の意味での熱延技術者になれると信じています。私は現役時代に新しい熱延設備の立上げを何と3度も経験させて貰い、技術者冥利に尽きる幸運を味わいました。
最初は呉製鉄所の第2ホットストリップミルの立上げ、その後スペイン・アセリノックス社の、続いて南アフリカ・コロンバス社のステンレス熱延設備の立上げです。
後の2件は、メインの仕上げ圧延機がステッケルミルと云う、呉製鉄所の連続式とは違う可逆式の圧延機で、我々にとっては実務経験の無い応用問題とも云うべき設備でした。
特に南アフリカのプロジェクトでは、我々チームの位置づけがドイツ・テイッセン社のアンダーと云う特殊なもので、英国,スゥエーデンなどヨーロッパ諸国のプラントメーカーの技術者たちと相対する厳しい舞台に立たされる事になりました。
Aranjuez
写真:スペイン・アランフェスにて(1985年クリスマス休暇)

<海外で得た財産>
私はスペインでは操業マネジャーとして、また南アフリカではゼネラルコーディネータとしてプロジェクトに参画しました。いずれも20名弱のチーム編成でしたが、各部門の優秀な仲間たちと異国で寝食を共にしながら苦労した経験は貴重な財産になっています。
幸いチームの総力をあげた努力が実を結び、いずれも所期の目的を達成して技術援助先から高い評価を戴いた事を今も誇りに思っています。
私が接した海外の技術者たちは、おしなべて優秀かつ勤勉で義理堅く、古き良き時代の日本人の心を持っているように感じました。西洋人は最後には契約の文面に拘り一切妥協しないとの先入観がありましたが、一旦人間的な信頼関係が築けると、驚くほど息の合う仕事が可能な事を知りました。
南アフリカでは、製鋼から冷延まで全工程の技術指導を統括するドイツ・テイッセン社のK博士が、微妙な立場にある日新チームに全幅の信頼を寄せてくれ、陰に陽に我々をバックアップしてくれた事に対し強い恩義を感じています。
また派遣中、短期間ですが家内を現地に呼び寄せて一緒に生活しあちこち旅行した事も思い出に残っています。特にスペインではクリスマスのトレド、南アフリカではケープタウンやクルーガー国立公園の観光など忘れられません。
Nisshin_thyssen_team
写真:テイッセン社のメンバーと 南アフリカ・ミドルバーグ市内の宿舎にて(1995年)

思えば高度成長期の日本鉄鋼界は生き生きと輝いていた様に思います。
我々もこの活気の中で大きな仕事を次々にさせて貰い、本当に幸せな時代に生きる事が出来ました。
現在日本の鉄鋼業は一時の危機を脱し活況を呈している様ですが、その前途は決して安泰だとは思いません。
さらなる技術の革新と蓄積に努め、これからも世界から畏敬される存在であり続けて欲しいと願っているところです。

これまで我が仕事の思い出を文章に綴るなど考えもしなかったのですが、ゼミの会文集への寄稿が思いがけないきっかけを与えてくれました。これからも折りにふれ心に残る人生の出来事や想いなどをブログに紹介させて戴きたいと思います。
酷暑もいよいよこれからが正念場ですが、皆さんくれぐれもご自愛下さい。
おわり

| | コメント (0) | トラックバック (0)